論文を書く事の意味がわからなかった。

 

医者とは人間を診る商売である。

だから医学知識の習熟ならびに日々の診療行為を通じて臨床能力を高める事が何よりも肝心で、その一番大切な部分から目を背けて論文を書く事に何の意味があるのかサッパリわからなかった。

 

そもそも世の中には研究しかやっていないガチのガチの研究者達が多数いる。

ガチ勢が世の中を変えるような研究をしようと血眼になって頑張っている傍らで、医者が診療の片手間で研究もやるだなんて、普通に考えて失礼だと思ったのだ。

 

凡人は、他にもっとやるべき事があるでしょ?

もちろん医療は科学だから、進歩を目指して先へ先へと推し進めるべきものではある。

だが、そういうのはウルトラ能力に溢れまくったスーパーマンがやるべき仕事であって、凡人は研究する暇があるなら他にもっとやるべきことがあるはずだ。

 

「なんか教授って偉そうにしてるけどさ…あの人達の研究って、本当にちゃんと意味があるものなの?」

「出世のためだけに税金をドブに捨ててるんだとしたら、それは許されるようなものじゃない」

「出世なんかに興味ないし、学術的な事なんて時間の無駄だ。一生やるもんか」

 

そうずっと考えて、臨床能力ばかりを追い求めてここまでやってきた。

しかし世の中というのは不思議なもので「絶対に研究なんかやるもんか!」と思っていたはずの僕が、今では実験、パワポにエクセル、統計解析を日々の診療と並行してやる有様である。

 

こうして実験&論文執筆に関わるようになり、研究者以外の人が研究に関与する意味のようなものがみえてくるようになった。

以下、研究と全く関係のない仕事をしている人達にも参考になるようにアレコレ書いていこう。

 

研究と言っても一口に色々ある

一般的には研究というと青色発光ダイオードだとかiPS細胞のようなミラクルな業績を思い浮かべる人が多いだろうが、研究と言うのはそのようなものばかりではない。

 

例えばである。A, B, Cと来たら、次に続く文字は何かと言われれば、多くの人は「D」と答えるであろう。

しかし研究的な意味では、Cの次が本当にDなのかは予測でしかない。

「たぶんDだろうけど、それを確かなものにするためにはキチンとした実験や解析をする必要がある」という事だ。

 

世の中にはこんな感じの解決一歩手前の問題が結構ある。

そしてこうした解決一歩手前の問題は、それが解決される事でまた新しく増え続けるという性質を持っている。

先ほど例ならA, B, C, Dと来たら次は「たぶんEだろう」というような感じだ。

 

こういう解決一歩手前問題の多くはとても地味だ。

解決の為には奇抜なアイディアというよりも、物凄く地道で土臭い日々のコツコツとした努力が必要となる。

 

研究でまず最初に学べるのは、この土臭い努力の大切さだ。

実験データを集めるという作業は最初の頃は本当に全貌像が見えなくて心を折られる場面も多々あるのだけど、それを淡々と続けていくと、いつの間にか立派なモノが出来上がる。

 

「日々のコツコツがないと、結果って出せないんだな」

「っていうか逆にいえば、結果って日々コツコツ頑張ってれば出来るんだな」

「大変だけど、毎日ちょっとづつ頑張ろう…」

 

こういう精神を学ぶのに、研究はとてもよい。

 

問いをたてられるようになると、能力のレイヤーがあがる

「どうもここまでは”確からしい”んだけど、ここから先はよくわからないな…解決する為には○○をすればいいと思うのだけど」

研究というのはそういう”未知”の問題を解決する為の手はずである。

既知の事実なら、本を読むなり勉強するなりすればいくらでも学べるのだが、未知の事実は誰かが解明しない限りまったくわからない。

 

研究という視点を持つ前までは知識は本に書かれているもので、割と万能なものだと思っていた。

だが研究者の端くれにもなると知識というのは意外と穴だらけで、端々にホツレのようなものが意外と沢山あるという事に気がつくようになった。

 

このような視点を持てるようになった結果、僕は日々の仕事を一段下のレイヤーに置く事が可能になった。

それまでは知識に使われていたのが、知識を使うようになったとでもいえばいいだろうか。

 

知識に使われる立場から知識を使う立場になるというのは、まさにコペルニクス的転回で、不思議な事にそうなると今までインストールするだけで四苦八苦していたはずの知識取得が、とても楽になる。

知的裁量権の獲得とでもいえばいいだろうか。とにかく研究というモノの見方には特殊な有用性があるように思う。

 

排泄できないと、頭が淀む

この二点だけでも研究というメソッドを素人が学ぶのには十分すぎるほどに価値があるものなのだけど、個人的に研究で最も有用だと感じる機能は知の”排泄”としての機能である。

 

最近実に思うのだが、人間の持つ能力の中で最も過小評価されているのが排泄行為なのではないかと思う。

みんな美味しいものをバクバクと食べるのは大好きだが、そもそも美味しいものをお腹いっぱい食べられるのは排泄器官がキチンと働いてウンチとオシッコとして外に出してくれるからである。

 

仮に排泄器官が全く働かないとしたら、どんな美食であれ全て身体には毒だ。

このように摂取というものは本質的に排泄あってこそのものなのである。

 

「なにを当たり前の事を言っているのだ?」と思う人も多いかもしれないが、その視点を持った上で改めて考えてみてほしい。

あなたは知識をちゃんと排泄できているだろうか?

 

恐らくなのだけど、この知識の排泄のやり口として一般的によく用いられているのが学校や職場における井戸端会議だ。

人間関係のデトックスが井戸端会議の本質で、あれは一般的に思われている以上に人の心を軽くする。

 

あなたも、特に理由がなくても親しい人とであってピーチクパーチク喋ってたら心がスッキリとした経験があるだろう。

あれは悶々としていた思考を言葉として口に出す事で形にして、自分の外に排泄しているのだ。だから喋り終わるとスッキリするのである。

 

その他にも、例えば創作もまた脳に溜まった知識を上手に排泄する為の一つの手段である。

僕は結構たくさんの本を読むのだけど、本を読み終わった後に記事として形にすると自分では思ってもいなかったような形で思考回路がスッキリまとまり次の本を頭を軽くして読むことができる。

 

知識はこのように形として外に排泄できると、有用なエッセンス部分だけを取り出して、無駄な部分を排泄する事が可能となる。

研究もまた同様の作用がある。

必死になってインストールした知識を使って、未解決問題を見つけ出し、それを論文として形にすると、なんていうかトイレに行った後のようなスッキリとした爽快感がある。

 

狂わないためにも、排泄上手になろう

かつて何かの漫画で

「特技は酸素を吸って二酸化炭素を作る事です!」

と答えるシーンがあったのだけど、改めて考えてみればこれは凄い事である。

 

地球の歴史を辿れば実は酸素というのは猛毒物質の一つであり、数多の生物を死へと追いやった極悪物質の一つとされている。

そんな極悪物質である酸素だが、その高エネルギー性を逆手にとって上手に利用する奴らの末裔が最終的には地球を制覇するのである。

 

酸素を吸って二酸化炭素にする。それができれば極悪物質ですら有効に活用できるのである。

 

食べ物だって同様だ。

おいしい食事をパクパク・モグモグと食べた後、ウンチやオシッコにできなければあっという間に人間は死ぬ。

 

このように改めて考えれば排泄行為というのは実に凄い芸当なのだけど、こと実生活においてこの排泄行為を上手にやっている人間はあまりいない。

本を読んだり勉強したりと、知識をモリモリ摂取する人はそれなりにはいるけれど、それを上手に排泄している人間はほぼ見かけない。

 

知識は酸素や食物のようにわかりやすく毒素として人体には貯まらないから問題視されにくい傾向があるけれど、当たり前だけど排泄しなければ毒は貯まる。

それが積もりに積もった結果として狂いに繋がったとしても、何もおかしくはない。

 

身につけた知識や技術は、何らかの形でウンチやオシッコとして排泄しないと毒になる。

どのようにして排出するかは様々な業界にその業界にあった方法が転がっているはずだから、狂いから上手に距離を取っている人に真摯に教えを請うべきである。

自分は論文を執筆しはじめて、確かに知識がキチンと排泄されるようになったなと思うようになった。

 

書くのも査読を通じてボコボコにされるのも物凄いストレスではあるが、狂わない為には確かに必要な行為なのだと最近は見直すようになった。

マジで苦そのものなのだが、まあウンチやオシッコはそういうものである。

 

なにはともあれ、飽食・情報過多な社会だからこそ私達はスリムであり続ける為にも排泄上手にならねばならない。

上手に消化し、ウンチやオシッコとして排泄する作業無しには狂いからは無縁にはなれない。

 

この狂った世の中で正気を保ち続ける為にも、共に排泄上手になろうではありませんか。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Trung Thanh